池大雅の掛軸を買取しました

  • 掛け軸買取事例
池大雅の掛軸を買取しました
作者
池大雅
買取地域
石川県河北郡津幡町

石川県河北郡津幡町のT様、店内持ち込みにて買取させていただきました。掛け軸がお好きで集めておいでだそうで、たくさんの掛け軸と額を数点お持ち込みいただきました。掛け軸は1本ずつ拝見しながら査定させていただきました。
画像は池大雅の掛軸です。池大雅は18世紀に活躍した文人画家で、1723(享保8)年、京都の町人の子として生まれました。その才能は早熟で、7歳のときに万福寺で書を披露し絶賛されています。37(元文2)年、亡き父の通称であった菱屋嘉左衛門を襲名し、扇屋を開きました。禅僧との交流のなかで大陸の文物にふれていた大雅は、文人趣味の扇絵を描いていたといいます。20代の模索の時代には、指頭画(筆のかわりに手指を用いて描く)などにも挑戦しました。71(明和8)年に与謝蕪村と描いた《十便十宜図》は、日本近世の文人画の双璧による記念碑的合作であります。

当店では掛け軸を高価買取させていただいております。飾ることもなく、管理もできない掛け軸がありましたら、シミができる前の売却をおススメします。年々価値が下がっている事も事実ですが、それよりもせっかくの作品を駄目にしてしまうのは非常に勿体ない事ですので、管理のできない掛け軸がありましたら坂井美術にご相談下さい。

また、今回の買取では池大雅の掛軸など、掛け軸や額を数点買取させていただきました。シミや汚れのあるものもありましたが、点数が多いこと、有名作家や箱付ということもあり、出来るだけ精一杯の金額にて買取させていただきました。大切にされてきた品々を買い取りさせて頂きありがとうございました。

 

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特徴

旧家整理品 掛軸 大雅堂 池大雅 秋景山水図 紙本 時代箱

作者について

池 大雅(いけの たいが)
享保8年5月4日(1723年6月6日) – 安永5年4月13日(1776年5月30日)
日本の江戸時代の文人画家 (南画家)、書家。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな)、字は公敏(こうびん)、貨成(かせい)。
日常生活には池野 秋平(いけの しゅうへい)の通称を名乗った。雅号は数多く名乗り、大雅堂(たいがどう)、待賈堂(たいかどう)、三岳道者(さんがくどうしゃ)、霞樵(かしょう)などが知られている。
妻の玉瀾(ぎょくらん)も画家として知られる。弟子に木村兼葭堂などがいる。与謝蕪村とともに、日本の南画(文人画)の大成者とされる。

享保8年(1723年)、京都銀座役人の下役の子として生まれる。父を早くに亡くし経済的に苦しい中、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始める。習い始めたばかりの頃、萬福寺で書を披露し、その出来栄えに僧たちから「神童」と絶賛された。
柳里恭(柳沢淇園)に才能を見出され、文人画を伝えられた。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は変化に富む。
大雅は中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立した。
川端康成の蒐集品として著名な「十便十宜図」は、中国・清の李漁の「十便十宜詩」に基づき、山荘での隠遁生活の便宜(便利さ、よろしさ)を画題に大雅と蕪村が共作した画帖である(大雅は「十便図」を担当)。
小品ながら、文人の理想とする俗塵を離れた生活を軽妙な筆遣いと上品で控えめな色彩で活写している。

  • 大雅は董其昌の「万巻の書を読み万里の路を行く」という文人画の方法論に従ったためか、旅と登山を好んだ。ある日京都の庵で仲間と富士山の話をしていて盛り上がり、「ならば登ろうではないか」と、いきなり旅支度を始め、富士山に行き旅巡りをして一か月以上して帰って来た。人々はこれを雅談だと讃えた、というエピソードが残っている。こうした旅と登山の体験は、大雅の絵の特色である広々とした絵画展開と、リズム感のある描線となって生かされる事になった。
  • 義母の徳山百合(池玉瀾の母)の発言として「大石良雄は短足の醜男で皮膚病があり、人々から指をさして笑われていた」と語っている。
  • 吉良義央の菩提寺である華蔵寺に度々訪れ、襖絵(花鳥画)を多数残している(県指定文化財)。山門にかけられた山号「片岡山(へんこうざん)」、中門の「華蔵世界(けぞうせかい)」および本堂西の間の「香水海(こうすいかい)」の3面の木額も大雅の書になるものである。

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